デモの形態の歴史的な性格by 高杉公望)

 イラク反戦で大衆運動が三十年ぶりに盛り上がる中で、いろいろな問題が浮上してきている。その一つに、デモの形態をめぐる問題がある。象徴的なのが、実行委が「パレード」という言い方をすることだ。これに対して、ロートル層のなかには不満があるようだ。もともと辞書を引けば「デモンストレーション」も「パレード」も「示威行進」という同じ意味である。だが、使っている方も反発している方も、ともにニュアンスがソフトになっているつもりである。ようするに、デモの形態およびイメージがハードかソフトか、過激か穏健かという違いの問題であろう。

 デモの歴史学などというものについて、ちゃんとしたことを知らないので、断片的な歴史知識をつなぎあわせて考察するしかない。おそらく、フランス革命のころのパリの民衆が暴動したり蜂起する実力を背景に、政権に対して圧力をかけたあたりのことが始まりではないだろうか。いずれにせよ、実力行使を寸止めにしながら権力者を威圧するというのが、「示威行進」のはじまりであったろう。

 したがって、初期の「示威行進」はつねに一触即発のものであって、暴動や武装蜂起にすぐ転化するものであった。反政府派にしてみれば、それは政権転覆への準備段階とうつった。十八世紀末から十九世紀末までの一世紀近くの間、フランスではこのようなスタイルの政治構造が存在していた。マルクスが暴力革命論をリアリティのあるものと考えていたのも、こうした時代に生きていたからである。

 しかし、1871年にパリ・コミューンが軍隊によって大量虐殺、殲滅、徹底弾圧されるという事態を契機として、それまでの政治構造は一変してしまった。近代兵器で装備された常備軍が民衆弾圧装置として量的・質的に飛躍したものとなったからである。こうして、もはや、それまでの示威行進暴動武装蜂起という政権転覆はリアリティを失ってしまった。

 

 むろんその時期に起こったことは、たんに強権的弾圧が強化されたといった単純な問題ではなかった。資本主義的経済発展によって労働者の生活水準が向上し、また政治的には選挙権の拡大、社会保障制度があり、法制度的にも労働者の権利保護が漸進しはじめたのである。

 

こうした変容には各国ごとの違いもあるだろうが、フランスよりも先進的なイギリス、アメリカ、オランダ、ベルギーや、やや後進的だったドイツでは、基本的にこうした歴史的変容を経験したものと思われる。(グラムシはこれを「遊撃戦」の時代から「陣地戦」の時代への変化といっているとか)

 したがって、これら最先進諸国では十九世紀末以降には反体制運動の路線転換が争点となった。そのため、当時の第二インターにおいては、綱領論争のレベルでの修正主義論争などといったことと同時に、戦術論のレベルでは、革命はマッセン・スト(ゼネ・スト)によるか、議会で多数を占めることによるか、といったことが議論されたのであろう。そこでは、「示威行進」は文字通り象徴的なものに変化してしまったといえる。
 これ以降、自由の女神を贈った国フランスと贈られた国アメリカでは、「市民デモ」という新しい政治表現スタイルへと発展変容を遂げていったのではないかと推察される。これに対して、産業資本と工場労働者の最も古い歴史のあるイギリスでは、工場スト、ゼネ・ストというのが最も伝統的な反政府的な政治表現となっている。これは、1980年代のサッチャー時代ですらそうだった。また、権威主義的ドイツでは、政治表現の回路もおそらく社民党その他の政党の主導性が強いのではないだろうか。「緑の党」などが回路として確立してくるのもそうしたお国柄ではなかったかともおもえる。

 ところが、ロシアや日本等々では、当然、最先進諸国とは歴史的な発展水準が違っている。ロシアでは、1905年に血の日曜日事件が起き、1917年には二月革命、十月革命が起きた。示威行進暴動武装蜂起という政権転覆の方法が有効性をもっていたわけである。

日本ではどうか。日露戦争のときには日比谷焼き討ち事件、第一次大戦後のシベリア出兵の時期には米騒動といったように、十年ごとに大規模な暴動が頻発していた。まだそんな社会状態だったのである。なのに、政治指導部は英国紳士かフランス知識人のつもりになって護憲運動だの、「民本主義」だの、「憲政の常道」だのに現を抜かしていた。また、若い知識人・学生の反体制指導部は、ロシア革命方式直輸入のコミンテルン理論に振り回されて、何もしないうちに一斉検挙されて自滅してしまった。戦後、これらが何事かのようにみえるのは、日共シンパが言論・出版界を一時期占拠して、大量に自分たちの被弾圧と抵抗の私小説的な歴史を垂れ流してきたからにすぎない。歴史か偽造されているのである。

 結局、戦前の日本には「示威行進」が政治表現として成立したようにはみえない。これに対して、戦後の日本は、自由の女神を贈られた国アメリカの占領政策によって、憲法をはじめ政治・社会構造が大きくつくりかえられたので、「示威行進」が活溌に行われるようになった。おそらく、冷戦開始前までは、アメリカはGHQお手製だったといわれる日本共産党に、手取り足取り「示威行進」のやり方を教えてやったのではないだろうか。

 ところが、冷戦、朝鮮戦争によって日共がGHQから袖にされると、今度は中国共産党方式の武装闘争路線が落下傘で押し付けられてきた。これで日共は大衆から見放されて壊滅同然となり、1955年の六全協で方針転換をせざるをえなくなった。このとき、「示威行進」路線の最前線で闘ってきた全学連の闘士たちが、全学連を再建し、砂川闘争、勤評闘争、警職法闘争をダイナミックに展開することとなった。この勢いでブント(共産主義者同盟)が結成されたのであった。そして、19591127日、安保闘争における請願デモにおいて国会突入を貫徹し、以後、安保闘争を牽引していく主導力となった。

 問題は、安保闘争のときの請願デモとは、いったい全体、戦略論的、戦術論的に、そしてそれ以上に日本社会の歴史性においてどういう意味をもっていたのかが、当の安保ブントの指導部においては、まったく無反省的だったことであった。何もわからなくなったまま、指導部の大半は、学生のプチブル急進主義なぞではなく、「真の前衛党」に指導された基幹労働者の階級闘争が必要だ、という一番愚かな反省に陥って、真の前衛党の確立を、などという妄想の革共同全国委に移行していった。それに対して、わからなさを真摯に受け止めた部分は政治の世界から身を引いて沈黙していった。残されたブント再建派は、大衆運動のエネルギーを昂揚させ、それを暴力革命に導くことだけを夢見て再建ブントをつくりだし、さらにそのうちのいちばん極端な夢想的部分は赤軍派を生み出していった。

 SECT6や独立社学同は、とりあえず安保ブント型の激しいデモの形態に、いまだ言語化されえない大衆の政治表現をみようとした。しかし、そこには、政治指導における戦略・戦術論的な有効性という観点は、はじめから存在していない。そこに、文学表現的な思考が混入してくると、およそ有効性などといった不純なものはいらない、ただ自己満足としての肉体の燃焼があればよい、ということにさえなる。むろん、SECT6や独立社学同が追究しようとしたことは、そんなことではなかった。

 1970年代前半の「新左翼」諸党派のめちゃくちゃな蛮行によって、日本の大衆運動は三十年間フリーズしてしまった。文字通り、凍りついたのだ。そのため、六○年安保の国会請願デモのあの過激なスタイルは、どういう歴史性、どういう戦略・戦術論的な有効性があったのかといった問いもまた、凍結されてきたのであった。591127日から6.15までの国会突入戦術という闘争スタイルを物神化する傾向が六○年代だけならともかく、四十年にもわたって固定化されているとしたら思考停止も極まれりというほかはない。

 

考えるまでもなく、四十数年も前の日本の社会状態とも、政治構造とも、また国際環境とも、そしてもちろんイデオロギー情況のすべてが一変している。そうしたなかで、安保ブント伝来の伝統のデモの形態は、どういう意味をもつのか。
 しかし、それは同時にまた、いまの日本社会の歴史性において、そのままフランスやアメリカの伝統である「市民デモ」の真似をすることに意味があるのだろうかと問うことと、それは同時的でなければならない。

 いまの日本において、「示威行進」暴動暴力革命などという図式に何の意味もないことだけははっきりしている。妄想の暴力革命論者と、文学表現的な思考が混入した自己満足的な肉体燃焼派によって、国民の税金で雇われている警察官たちに余分な税金が支払われるようになることを、直観的に一般大衆が嫌うこともまた、はっきりしている。それは、警察官僚機構への批判とは、まったく別の文脈のことである。

 いまの日本において、どこまで一般大衆が政治の主役であるのかは疑わしいが、まず最初は「示威行進」は一般大衆へのアトラクションでなければならないはずである。しかし、ふつうの生活大衆が、わざわざ街頭行進に参加する、といった契機が、政治や社会や文化に、どのような「有効性」をもっているのかを、ということを考えることは重要なことのようにおもえる。
 既成政党への投票や支持者の獲得の機会に利用されるだけという不毛な構図は、何故に不毛なのか。既成政党じたいが不毛な存在だからなのか、それともそれ以上の理由があるのか。さしあたり、前者の理由が直接的なような気もしなくはない。(2003/04/06

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